FF外から失礼します、だと?twitterの文化

今日は比較的どうでもいいことを少しばかり考えようと思います。
最近(最近でもないかもしれないけど)よく「FF外から失礼します」という文言をよく見る。
バズっているツイートに付いているリプライによくあるアレだ。
FF外ってなんぞや?
ファイナルファンタジーなら知ってるんだけど…
と思ったツイッター初心者の私は、すぐさまOK Googleと言って、FF外について調べた。
FF外とは
どうやら相互フォロー関係にない関係のことを言うらしい。
あなたをFollowしてないし、あなたはFollowerでもありません、ってことなのでしょう。
「FF外から失礼します」の会話における意味
どうやら昔は「FF外から失礼します」なんて文言はなかったらしい。
そもそも「FF外から失礼します」と言う人の心境はどういったものなのだろう。フォローしてないし、されていない、そんな相手に言うことがあるのだろうか。少し考えてみる。
あるツイートに関して、指摘をしたり反対意見を言いたいのだけれど、突然それを言ってしまうと相手に不快感を与えてしまうのではないか。だからこそ、自分の発言に保険をかけ、前置きとして、「あなたにこれから意見(主に指摘や反対意見)を言うけど、軽く参考程度に聞いてね」という意味で言っているのだろうか。
それとも、流行りに乗ってとりあえず「FF外から失礼します」と言っておけば、何を言っても良いという免罪符的な使い方をしているのだろうか。(よくある「失礼ですが、あなたおいくつですか」という本当に失礼なことを聞く「失礼ですが」に似た使い方)
「FF外から失礼します」自体には実は意味は無いのかもしれない。どちらにせよ、この決まりきった「FF外から失礼します」という文言を最初に入れることにより、他人に意見がしやすくなったのだ。そこが大事なところだと思う。
もはやこれは文化
どんな文言であれ、共有されている形式的な言葉があると文化的に対等な関係を築くことができる、と私は思う。
仮に、自分の会話の最後に「らりるれろ」と言う文化を持つ人たちが居たとする。彼らと仲良くなりたかったら、きっとあなたは「今度映画を見に行かない?らりるれろ」「え、あなたこれ買ったの!?すごいオシャレだよね!らりるれろ」といった調子で会話すると思う。
みんなが使っているから、自分もとりあえず使ってみる、それでも良いのではないだろうか。
今はまだ違和感を覚えるが、ご飯を食べる前に「いただきます」というのが自然なように、「FF外から失礼します」は自然なものになるのかもしれない。